サイの角のように 独りよがり映画論

映画について自分勝手な感想の備忘録。ネタバレもあり。 ほかのブログから引っ越してきました。

橋本愛がほとんど出突っ張りでがんばる『さよならドビュッシー』

 橋本愛主演のミステリー。ピアニストを目指す遥(橋本愛)とルシア(相楽樹)は仲の良いいとこ同士。親を亡くしたルシアは遥と姉妹のように暮らしていたが、ある日火事が起きて片方が焼け死んでしまう。

 この先、ネタバレもあり(あまり関係ないとは思うけど)

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 原作は『このミステリーがすごい!』の大賞受賞作とのこと。つまりミステリーとして読まれているはずだ。しかし映画版においてはその謎は陳腐なものに成り下がっている。
 この映画『さよならドビュッシー』がミステリーとして成立していないのは、映画というジャンルの性質上仕方ないことなのだろうと思う。原作小説では文章だから謎として成立するアイディアも、俳優が現実に演じている映画となるとそうはいかないからだ。遥とルシアのふたりのうち火事で助かったのはひとりだけ、生き延びたひとりも全身やけどで顔にも整形を施して元に戻したとなれば、だいたい謎となるものの見当はつく。
 だから、全身包帯で現れた生き残った片一方はまったくの橋本愛の顔だけれど、『私が、生きる肌』みたいな様子で登場するものご愛敬だ(同じ整形ものの『私が、生きる肌』にはびっくりしたが……)。だからそんな謎よりも遥=ルシアの成長物語として、あるいは音楽ものの青春映画として楽しめばいいと思う。

 遥にピアノを教える岬洋介は『のだめカンタービレ』などでピアノの吹き替えをしていたというピアニスト清塚信也。演奏するピアノがうまいのは当然だけれど、いかにも音楽家といった風貌も映画に合っていた。いつも無表情な印象の橋本愛も、整形したばかりという設定もあってその無表情にも理由があるし、雨のなかで自分がルシアであると告白する場面なんかは真に迫っていたと思う。知らぬ間に別人として生きることになってしまったルシアの想いにも泣かされる。



『クラウド・アトラス』 輪廻転生が果たした役割は?

 『マトリック』シリーズのウォシャウスキー姉弟と『ラン・ローラ・ラン』『パフューム ある人殺しの物語』のトム・ティクヴァが共同で監督。出演はトム・ハンクスハル・ベリーペ・ドゥナなど。
 19世紀から文明が崩壊して地球を脱出するまでの物語。6つの時代のエピソードを同時並行的に描くという実験的な作品。われわれ観客はわけもわからずにそれらを観ていくしかないが、それが退屈にならないところはさすがにハリウッド製エンターテインメント。約3時間の長丁場だが一気に見せる。

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 しかし、終わってから冷静に考えてみるとよくわからないことも多い。『クラウド・アトラス』では、たとえばトム・ハンクスは6つの時代すべてに登場するわけだが、それによって物語に何らかの影響があるのかと言えば、そうとも思えない。
 トム・ハンクスの演じるのは、輪廻転生によって生まれ変わっていく魂みたいなものなわけで(肉親関係だから顔が似ているというわけではない)、輪廻という考え方はこの映画では重要な位置を占めている。それにも関わらず、なぜか輪廻が物語全体に大きな影響を与えないというのが不思議なところか。エピソードを結びつけているのは、文学・音楽・映画などの芸術や宗教などなのだ(あるいはシチューエションの類似性から無理やり結び付けたりもするが)。
 そうした各エピソードを結びつけるものに関わる人には、この映画ではほうき星型のあざが付けられている。それらは各エピソードの主役だが、まったく関係のない6人だ。三島由紀夫『豊饒の海』などでも、輪廻する対象にはわかりやすいマークが付けられるが、この映画ではまったく関係ない人物にマークが付けられているから、かえって混乱するような……。もしかすると神の御意志に導かれた人物が、ほうき星型のあざを背負っているということなのかもしれない。そうだとしたら、地球崩壊に至るのも神の御意志ということになり、この映画はノアの箱舟の再現みたいな話とも言えるのかもしれない。

 無表情なクローンを演じたペ・ドゥナは、出演シーンが多いわけではないが今回も何故だか印象に残る。個人的には『ムーラン・ルージュ』でジドラー役を演じていたジム・ブロードベントが大きな役(2012年の老編集長役や1931年の大作曲家役)として登場していたのが嬉しかった。





『レ・ミゼラブル』 本格的なミュージカル?

 昨年公開された人気のミュージカル映画。出演はヒュー・ジャックマン、ラッセル・クロウ、アン・ハサウェイなど。ラッセル・クロウがミュージカルなんて考えてもみなかったけれど、低音が響くいい声なのにはびっくり。

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 ミュージカル映画は好きだが、本物のミュージカルというものはまったく観たことがない。この『レ・ミゼラブル』はその本物のミュージカルをそのままに映画にしたような作品だ。だからミュージカル映画というものに慣れている人は、ちょっと戸惑うのではないのだろうか。ぼくは登場人物がほとんど歌い続けているのに違和感を覚えた。
 よくあるミュージカル映画では、それぞれの登場人物の感情が高まった場面で歌うというのがお約束だ。だから登場人物が歌い始める(あるいは踊り始める)瞬間というのは、映画の演出としては非常に重要な箇所になる。しかし『レ・ミゼラブル』ではのべつ幕なし歌い続けるものだから、メリハリに欠けるような気もした。本物のミュージカルというのはそういうものなのかもしれないが……。

 この『レ・ミゼラブル』に使われている楽曲は有名なものあるが、同じフレーズが別の歌詞で歌われたりと、ひとつひとつの楽曲よりも、クラシックのように全体でひとつの作品を構成するようになっているようだ(ポミュラー・ミュージックで言えばコンセプト・アルバムみたいなものだろうか)。『ムーラン・ルージュ』とか『フットルース』などのミュージカル映画に親しんできたぼくにはちょっと高尚な感じもするが、やはりエボニーヌが歌う「On My Own」には泣かされるし、アカデミー助演女優賞を獲得したアン・ハサウェイの鬼気迫るような歌声にも魅了された(登場シーンは多くはないが、再登場する場面の歌声は天から聴こえてくるようだった)。
 人が歌い出すというのは、普段あまり見られない行動だと思うが、この映画はリアリズムに徹して描かれている。アン・ハサウェイが「夢やぶれて(I Dreamed a Dream)」などは息遣いさえもが聴こえてくる。だがリアリズムに徹するのはいいとしても、監督のトム・フーパーは女優を美しく撮ることに興味がないのではないだろうか? アン・ハサウェイは丸刈りにされるし、あんなに綺麗なアマンダ・セイフライドさえも魅力を減じているような。エボニーヌ役のサマンサ・バークスも一番の見せ場で、雨に打たれて髪はボサボサでみすぼらしくも見え、いかにそういう役回りとはいえちょっとかわいそうな気もした。




『さよなら渓谷』 加害者と被害者のかなり複雑な関係

 つい先日、『さよなら渓谷』モスクワ国際映画祭の審査員特別賞を受賞したことが発表された。原作者の吉田修一は映画際に招待されるような映画を望んだらしいが、さらに賞まで獲得する成果を挙げた。
 真木よう子の7年ぶりの単独主演作品。監督は『まほろ駅前多田便利軒』の大森立嗣。共演には『赤目四十八瀧心中未遂』『キャタピラー』の大西信満

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 物語はどこにでもいる普通の夫婦に見えたふたりが、実はある事件の被害者と加害者だったというところにある。なぜ加害者と被害者が夫婦のように寄り添って生きているのだろうか?
 真木よう子は、最近では『つやのよる』にも1つのエピソードの主演として登場していたが、この作品は『ベロニカは死ぬことにした』以来の単独の主演作品。『ベロニカ』ではかなり大胆なシーンにも挑戦していたが、『さよなら渓谷』でも冒頭から濡れ場が用意されている。と言っても『さよなら渓谷』での真木の露出はそれほど多くはない。
 監督の大森立嗣が真木に求めているのは、どこか無機質で何も見ていないようなあの大きな眼だからだ。渓谷近くのわびしい感じの家に住むふたりは、落ちぶれて人目を避けているように見える。それでいてふたりだけの世界は小さな幸せがあるようだ。真木よう子の眼は虚無を見つめているようでいて、過去の何かに囚われているようにも感じられる。観る人にさまざまな想像を駆り立てるような印象的な表情をしている。

 どこか甘美なところもあるふたりの生活。真木よう子なら落ちぶれた生活もありかもしれない。そんなことも思うが、映画後半に次第に過去が明らかにされていくと、そんな妄想も否定されるだろう。それは明らかになる過去は地獄のような日々だからだ。「死ねばいい」なんて想いを互いにぶつけ合った後の、愛も憎しみもごちゃごちゃになったような結び付きなのだ。ひとりは傷の深さゆえにほかに行き場所もなく、もうひとりはその許されぬ罪をつぐなうためにその関係から離れることができない。そんな複雑な関係なのだ。
 ラストに流れる椎名林檎作詞・作曲のテーマ曲も染みる。真木よう子の声はちょっとかすれて色っぽい。





『その夜の侍』 「他愛のない話がしたい」とは?

 監督の赤堀雅秋は演劇界の人だそうだ。この映画は赤堀がかつて上映した舞台劇を映画化したもの。
 物語は妻をひき逃げされた中村(堺雅人)と、ひき逃げ犯である木島(山田孝之)を中心に進む。被害者遺族である中村は、刑期を終えて出所した加害者木島のことをこっそりとつけ回す。そして、妻の命日になったら「お前を殺して、おれも死ぬ」という殺人予告を木島に送りつける。

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 加害者である木島はできれば自分のそばには居て欲しくない人間だ。傍若無人な振舞いは常軌を逸していて、周りの人間にも理解不能。しかし、その一方で周りの寂しい人間は、どこか木島に惹かれてしまうところもあるようだ。独りでいるよりはそんな人間でも近くに居たほうがいいということだ。木島を演じる山田孝之はギラギラした目で、異質な存在感を放つ。
 被害者遺族である中村はなぜかプリンが大好きな中年で、やせているくせにプリンの食べすぎで糖尿気味。堺雅人はいつものキラキラした瞳は見せずに、分厚い眼鏡で怪しい風体の男になりきっている。いつも汗まみれで髪はあぶらっぽく、妻の死の受け容れられずほとんど精神を病んでいるみたいな状態だ。

 タイトルに“侍”とあるけれど、中村と木島の対決は、勧善懲悪的な時代劇の一騎打ちのようにすっきりとしたものになるわけではない。
 中村は木島に「他愛のない話がしたい」と語りかけるが、難しい言葉なんかで直接に心情を説明しないのがいい。他愛のない話は中村の心にうごめく“何か”を直接に示しはしない。それでも雨のなかでの泥まみれの対決のあとには“何か”が伝わってくるようにも思えた。けんかのあとでふたりがわかりあうなんてこともないし、中村が完全に吹っ切れたとも思えないけれど、犯罪被害者の遺族と加害者の関係がすっきりと整理されるわけがないのだ。
 そのすっきりしなさから「わかりにくい」という評価もあるみたいだけれど、言葉で説明できない“何か”を表現している点で素晴らしい作品だと思う。





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