サイの角のように 独りよがり映画論

映画について自分勝手な感想の備忘録。ネタバレもあり。 ほかのブログから引っ越してきました。

『独裁者と小さな孫』 独裁者はなぜ踊るのか?

 『カンダハール』などのモフセン・マフマルバフ監督の最新作。

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 独裁者が支配する架空の国が舞台だ。冒頭、大統領と呼ばれる独裁者(ミシャ・ゴミアシュビリ)はその小さな孫(ダチ・オルウェラシュビリ)と一緒に街を一望する宮殿にいる。大統領が街中の電気を消せと電話で命令すると、宮殿以外の電気がすべて消え、眼下の街は真っ暗闇に包まれる。大統領は孫にも同じことをさせてその権力を示そうとするのだが、あまりに調子に乗りすぎたのか下界では革命が生じてしまう。

 マフマルバフ監督は同じくイランのキアロスタミ監督のあとに日本に紹介されたと記憶している。そんな意味ではキアロスタミのようなドキュメンタリー風な作品を撮る監督と認識されていたのだろうと思う。実際『サイクリスト』とか『カンダハール』はそういう作品だった。しかし、この作品はそうした系統とはちょっと変わっていて寓話的な作品になっている。

 革命によって大統領の座から追われた元独裁者は、逃げそびれた孫とともに宮殿を降りて下界をさまようことになる。長い髪のカツラを着け孫には女装をさせて旅芸人のふりをして逃亡する(孫の女装がとてもかわいい)。下界は地獄みたいなものだ。しかもその地獄は元独裁者が自分で作り上げたものであるわけで、元独裁者は自分の治世の酷さを思い知ったのかもしれない。最後まで大統領に返り咲くことを考えているところからすると懲りていないのかも。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

 元独裁者は最後に民衆たちにつかまることになる。これまでの冷酷な仕打ちを忘れていない民衆は元独裁者を殺そうとする。さらには単に殺すだけでは飽き足らず、孫を殺すのを見せてからとまで言い出す。かわいらしい孫の首に縄がかけられたときにはあまりにかわいそうでハラハラしてしまった。それでも一部には暴力の連鎖を止めなければならないという良識のある人間もいる。元独裁者と孫が「踊れ」と命令されたところで映画は終わる。

 

 独裁者を殺すのではなく踊らせるというところにどんな意味を込めたのだろうか。元独裁者を政治的に利用しようということだろうか。それとも暴力の連鎖を食い止めるための手段として踊りというものが選ばれたのだろうか。

 放浪の旅に出た元独裁者はギターを演奏し孫にダンスをさせる。ここで流れる音楽はあとから映像に合わせてつけられたものだと思うが、元独裁者たちが街で会うことになるギター弾きや歌手の声はリアルな音源のようだった。フラメンコギターやがなるような歌声(トム・ウェイツ風?)など、どこかロマ族の映画監督であるトニー・ガトリフの作品(『ガッジョ・ディーロ』とか)を思わせるところがあった。意図的なものなのかどうなのかはよくわからないけれど……。


『駆込み女と駆出し男』 人情話ってとてもいい

 駆込み寺についての物語。井上ひさし11年もかけて連載した小説『東慶寺花だより』が原案となっている。監督は『突入せよ! あさま山荘事件』や『日本のいちばん長い日』などの原田眞人

 劇場公開時も評判がよかった作品だが、今月になってソフトもリリースされた。

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 今でも離婚するのは色々と面倒なこともあるようで、そうした裁判沙汰も多いように聞いているのだが、江戸時代では女の地位は今よりも男に従属的なものであったらしく、夫が妻に離縁を申し立てることはできたとしても、逆のこと――つまり妻が夫に離縁を申し出る――は許されなかったようだ。しかし、そんな社会のしきたりからは免れることができる聖域(アジール)として駆込み寺があって、妻がそこに逃げ込んで2年間の時間を過ごせば、寺が旦那から離縁状をもらうことができるようになる。そんな話は聞いたことがあったけれど、それを具体的な物語として見たのは初めてだったのでとても興味深かった。

 世間のルールは歴然として存在しているわけだけれど、一種の治外法権として、徳川家直轄のというお墨付きでその寺が運営されているから、命が惜しいものはどんな悪者も手を出すことはできない。命が惜しくない奴にはやっぱりそんなことも効かないわけで、今の時代ならそうした縛りさえ破ってしまうようなストーカー的な人物も多いから駆込み寺が有効なのかはあやしいところだけれど……。

 

 仕事を妻に押し付けて遊郭に入り浸る亭主とか、その他諸々のアホな男によって江戸時代にも女は虐げられている。そんな意味では暗くなりそうな題材だけれど、駆出し男である信次郎(大泉洋)のキャラのせいか不思議とのほほんとした感じになっている。

 駆込み寺のなかは女性だけの聖地で、それなりに平穏無事な生活があるわけだけれど、彼女たちは別に出家者ではないから女性同士の嫉妬があったり、久しぶりの男の匂いに色めき立つこともあったりするのがおもしろい。はちみつ浣腸あたりはかなりきわどいネタだけれど笑える。

 虐げられる女じょごを演じた戸田絵梨香がとてもよかった。今年は『予告犯』『エイプリルフールズ』にも登場していたが、色々な顔を見せてくれたと思う(どちらも映画としてはひどかったが)。それから満島ひかり演じるお吟の婀娜っぽい生き方もいい。病で衰えていく姿を本当に好いた男には見せたくはないって何だかカッコいい。

『愛を語れば変態ですか』 もっと変態であってほしかったが……

 演劇界出身の福原充則の初監督作品。

 郊外の住宅地でカレー屋を始めることになった夫婦。開店を明日に控え準備に励むふたりだったのだが……。カレー屋に登場する人物たちはみんなクセのあるキャラばかり。妻のあさこ(黒川芽以)と一緒に過ごす時間を増やすために脱サラした夫(野間口徹)とその後輩(チャンカワイ)が開店準備をしていると、次々とそれを邪魔するような珍客がやってくる。バイトの面接に訪れた男(コンビキングオブコメディの今野浩喜)は合格もしてないのに態度がデカいし、近所迷惑なあさこのストーカー(栩原楽人)も現れ、最後にはヤクザ(永島敏行)が血だらけになって登場し、カレー屋の開店もどんどんあやしい雲行きになっていく。

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 舞台劇からの映画化ということで前半はカレー屋内での軽妙なやりとり。キャラはどれもかなりウザい。あさこがその中心となるわけだけれど、やさしく貞淑な妻の雰囲気で登場したあさこは実はヤリ○ンだとわかってくる。あちこちで本気になって旦那以外の人を愛してしまうらしい。「愛」というのも単なる博愛などではなく、しっかりセックスしているらしい。浮気ではなく本気だというのがかえってタチが悪いところだけれど、本人はそれに気づかないのかもしれない。

 あさこからすれば愛は増えるのかもしれず、夫婦ふたりだけが幸せになってそのほかの人がどうでもいいというのは間違っているということになるらしい。最後はキス魔の痴女になって街を走り去っていく黒川芽以が見どころ。それから妙なしゃべり方をする永島敏行もおもしろい存在だった。

 ただ、わざわざ演劇を映画化したにしてはあまり映画らしいところはなかったかもしれない。たしかにキャラの顔で笑わせるところはあるのだけれど、世界が変わるという表現も単に光るだけという安易な効果だったし……。とりあえずバカバカしくて楽しい映画ではあるけれど、世界を変えるほどの愛の映画ではないようだ。

『東京無国籍少女』 最終兵器たる清野菜名が見どころ

 押井守監督の実写映画。

 主演はTOKYO TRIBEの清野菜名。

 7月に劇場公開され、今月DVDが登場した。

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 一応は学園ものみたいな感じで進む。この辺はスローモーションをこれみよがしに使うばかりで正直退屈。金子ノブアキの演じる先生は先生に見えないけれど、おもしろいのはそのあたりくらいだろうか。結局は最後の戦闘シーンがやりたかったんじゃないかと思う。というか極論すれば、最後の15分だけ見ればいいんじゃないかとも思う。今回は劇場ではなくDVDだったので、最後だけは繰り返して何度も見た。

 最後は学園にロシア風の戦闘部隊が乗り込んできて、それを天才のなれの果てとか呼ばれていた藍(清野菜名)がそれを一掃するのが一番の見せ場。清野菜名は『TOKYO TRIBE』でもその運動神経は証明済みだったわけだけれど、この映画では殺人術を学んでロシア兵たちをなぎ倒していく。

 ちょっと長めのスカートに自らスリットを入れて立ち回りをするものの、パンチラはまったくない。それよりも激しいアクションのほうを見てほしかったということなのかもしれない。『TOKYO TRIBE』では園子温の趣味で散々パンチラはやっていたわけだし……。

 

 複数で押し寄せるロシア兵に対し、たった独りの清野菜名はひとりを倒すとそれを壁として利用する。ナイフも使うのだが、その使い方が手首や足首などに切りつけていくという残虐さ。

 こうした戦闘術をどこで学んできたのかはよく知らないのだけれど、昔、リングスというプロレス団体に所属していたヴォルグ・ハンを思い出した。ヴォルグ・ハンはロシアのコマンド・サンボの使い手で、手首を取って相手を転がしたりする技を持っていて、この映画でも相手を壁として利用するあたりの身体の使い方なんかはコマンド・サンボっぽい動きに思えた。そのあたりの格闘ものが好きな人にはお薦め。

『カミーユ、恋はふたたび』 変えることのできるものと、変えることのできないもの

 フランス産のタイムトラベルもの。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』以来タイムトラベルものは気になってしまうので劇場で観てきた。

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 主人公は結構なおばさんのカミーユ(ノエミ・ルボフスキー)。売れない役者として殺される役なんかをやったりしている。25年も連れ添った夫には若い愛人が出来て、離婚を切り出され酒を飲まずにはいられないという状態。パーティでも泥酔して気を失うとなぜか16歳のころに戻ってしまう。

 この作品でおもしろいのは16歳のころに戻っても、観客はカミーユがそれまでのおばさんとしか見えないということ。しかし映画のなかの登場人物たちにはカミーユは16歳に見えているらしく、両親もおばさんのカミーユを16歳として扱う。おばさんが妙にフリフリのスカートとパンクなTシャツで登場することになるのがちょっとおかしい。

 実はこの映画のカミーユの友達たちを演じる役者も結構な年齢だ(30代から40代というところ)。そんな役者たちが16歳を演じるのだけれど、そのなかに混じってもカミーユはより老けて見える。監督も務めるノエミ・ルボフスキーはそのなかでも一番年上なのは間違いないのだけれど、そんなおばさんが段々とかわいらしく見えてくるところに監督が自分を主演として映画化した意図があるのだろうと思う。とはいえやはり年齢が年齢だけに初々しさには欠けるところがあるのは否めないし、タイムトラベル映画としても新味があるわけでないのが惜しいところ(過去のなかに歳を食った登場人物が戻っていくというアイデアはベルイマン名作『野いちご』にもある)。

 よかったところもある。16歳のときにはまだ生きている母親は、その後すぐに脳卒中で死ぬことになるのだが、カミーユはそれを阻止しようともするが結局過去は変えることはできない。死ぬことがわかっていてもどうしようもないという場面はちょっと切ない。

 ただこの映画では未来が変わる部分もある。そこで引用されているのが有名な「ニーバーの祈り」カート・ヴォネガットの小説『スローターハウス5』にも引用されていた)。変えることのできるものと、変えることのできないものがあるというのは真実だなあとしみじみ思わせる。その「ニーバーの祈り」をカミーユに授ける人物としてジャン=ピエール・レオが顔を出しているのは嬉しい。


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