誰かが「怖い映画」だと記していたのを見て、勝手に多重人格もののホラーなのだと思ってレンタルしたのだが、実際にはまったく違っていた。この映画はカルト集団から逃げてきたマーサが、その過去の幻影に悩まされるという話。ホラーとは違うけれど、じわじわくる心理的な怖さがある。脚本・監督はショーン・ダーキンという若者。サンダンス映画祭ではこの映画で監督賞を受賞した注目株だ。
 邦題はマーサという本名と、マーシー・メイというカルト集団内での名前(オウム真理教で言えばホーリー・ネームのようなもの)を並べたものだが、原題「Martha Marcy May Marlene」となっていてマリーンという名前も加わっている。マリーンとはカルト集団内での電話番のときの名前だ。

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 『マーサ、あるいはマーシー・メイ』は、マーサがカルト集団から逃亡したところから始まる。マーサは姉のところに身を寄せて、姉とその夫と一緒に生活し始める。マーサは2年間のカルト暮らしで一般的な常識とずれているところがあって、姉たちとの生活に支障を来たしていくことになる(人目につく湖で裸になって泳いだり、姉たちの寝室に行為の真っ最中に入り込んだりする)。
 トラブルの原因は、マーサが次第にカルト集団での出来事の妄想に囚われるようになるからだ。このカルトはマンソン・ファミリーみたいなもの。共同生活をしてフリーセックスを教義とするだけなら問題は少ないが、侵入盗や人殺しまで奇妙な論理で免罪するような反社会的性格を持つ。マーサは人殺しの共犯として仲間から追われるのを恐れているのだ。

 この映画ではマーサの現実世界に、マーシー・メイであった過去の出来事が妄想的に侵入していき、現実と妄想的世界が並行に描かれるようになる。そのカルト集団と現実社会の対比もうまかったと思う。マーサのうつろな目は洗脳から抜け切らないということでもあるのだけれど、どこか現実社会には飽き足らぬものが空想の世界を求めるようにも見える。「ここではないどこかへ」というやつだ。
 だからマーサはカルトに対しても両義的な想いを抱いているようにも見える。追われる恐怖と、スノッブな現実に対するオルタナティブとしての何か。もちろん後者は危険な考えにも結びつきやすい(オウムを見れば明らか)。この映画のカルトも自分たちに都合のいい論理で法を逸脱することも厭わない。こんなのが認められないのも確かだが、一方の現実社会のつまらなさも明らか。だから、この映画ではどちらにも居場所がないマーサの寄る辺ない姿が印象に残るのだと思う。

 マーサを演じたエリザベス・オルセンはあどけない表情なのだが、肉体は豊満そのもの。特に胸を強調した場面も多いのだが、その胸のアピールに本人が気づいていないような惚けた感じがとてもよかった。エリザベス・オルセンは『レッド・ライト』では目立たなかったのだが、あれはほかの連中がデ・ニーロ、シガーニー、キリアン・マーフィーというやっかいな面子だったからなのかもしれない。