『プライドと偏見』『つぐない』のジョー・ライト監督作品。出演はキーラ・ナイトレイジュード・ロウアーロン・テイラー=ジョンソンなど。
 過去に何度も映画化されたトルストイの長編小説の映画化。ぼくが観ているのは1997年のソフィー・マルソー版だけだが、原作のアンナのイメージに近いのはふくよかな印象のソフィー・マルソーだとは思うが、今回のキーラ・ナイトレイ版のアンナも線が細すぎるとはいえ美しさは際立っている。

anna001.jpg

 物語としては、アンナとヴロンスキーの不倫と、キティとリョーヴィンのまっとうな結婚が描かれる。監督のジョー・ライトは今回なかなか実験的な手法を用いている。まず登場人物が現れるのは“劇場”の舞台の上なのだ。そんな“劇場”で演じられる物語と、“劇場”を離れてロシアの大地の上で展開する物語が入り混じるように進んでいくのだ。
 この”劇場”という装置で表現されているのは何か? アンナはヴロンスキーとの恋を秘め事に終わらせず、社交界の掟を破って不倫を公然のものとしてしまう。それによって結局社交界という「世間の目」によって酷い目に遭わされる。この「世間の目」を象徴したものが、“劇場”で演じられる偽りに満ちた物語なのではないだろうか。
 たとえば、競馬は貴族たちの社交の場だから当然“劇場”内で行われ、転倒した馬は舞台から転げ落ちることになる。アンナとヴロンスキーのベッドシーンは秘め事だから“劇場”以外の場が設定されるが、アンナが息子とベッドにいる場面は“劇場”内で進行している。これはアンナと息子の関係が「世間の目」を意識していることの表れかもしれない。
 トルストイの原作『アンナ・カレーニナ』を論じたナボコフは「社会の掟は仮初(かりそめ)であって、トルストイの関心は永遠の道徳的要請というところにあった。」(『ナボコフのロシア文学講義』より)と記しているが、この映画で言えば、仮初の掟は「世間の目」によって担われており、“劇場”を去っていったリョーヴィンが最後に獲得するものはナボコフが「永遠の道徳的要請」と呼んだものだろう。

 ジョー・ライトは物語内に“劇場”という装置を組み込んで、それまでの映画化との差異化を図ったのはそれなりの成功を収めている。キティがヴロンスキーに捨てられる場面での奇妙なダンス――普通に腕を組むのではなく、アルゼンチン・タンゴの足の動きのように腕と腕を絡ませながら踊る――は今までに見たことのないダンスシーンだし、木下惠介が『楢山節考』でやったような舞台セットの移動を映画内に取り込む演劇的手法もけれん味があってよかったと思う。