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 主人公は元国民的アナウンサーだが、不祥事によりラジオ局に左遷されたヨンファ(ハ・ジョンウ)。ある朝、ラジオ番組のリスナー参加コーナーに脅迫めいた電話がかかる。いたずらとして取り合わなかったヨンファだが、次の瞬間、脅迫通りに近くの橋が爆破される。驚いたヨンファだが、特ダネ情報を利用してテレビの世界へと復帰を試みる。犯人と交渉して、それをテレビ番組で生中継しようとするのだ。

 カメラはラジオ局の中から一歩も出ないにも関わらず、矢継ぎ早に起こる出来事に退屈することはないだろう。脅迫、犯人の要求とその交渉、さらなる爆破、橋に取り残された人たちの救出、逃げられない状況設定など盛りだくさん。よく考えたらツッコミどころは満載だ(最後の展開はさすがにやりすぎだろう)。犯人がどうやって爆弾を仕掛けるのか、その辺の整合性はほとんど無視しているけれど、韓国社会の暗部を見せているような社会性もあってなかなか楽しめる。

 日本でも罪を犯した人物が自らのことを「無敵の人」と呼んだとして、ちょっと話題になったようだ。何が「無敵」なのかと言えば、彼のような人物は失うものが何もないから、怖いものは何もなく、何でもできるということだ。命を惜しまない自爆テロは宗教的狂信者ばかりでなく、そんな「無敵の人」の担う業になってくるのかもしれない。
 この『テロ、ライブ』の犯人の素性もそうした部分があるのではないだろうか。「持つ者」と「持たざる者」の違い。詳しくは言わないが、犯人は社会の底辺で生きる人びとから生じているのだ。一部の政府中枢に関わる富裕層は、国を守るという名目の下、自己保身ばかりに終始して、「持たざる者」を助けようともせずかえって虐げていないだろうか(犯人の要求は大統領の謝罪だ)。日本も他人事ではないという気がする。
 また「持つ者」と「持たざる者」という対照は、局長とヨンファのような世代間の差とも言えるように思えた。局長はヨンファの手柄を横取りするような場所にいて、後に続く世代は先行世代ほど景気のいい話はなく、割に合わないという感覚を抱いているのだ。こうした構図は日本でも同じであり、荒唐無稽なこの映画だが、その辺は的を射ているという気もするのだ。