監督の赤堀雅秋は演劇界の人だそうだ。この映画は赤堀がかつて上映した舞台劇を映画化したもの。
物語は妻をひき逃げされた中村(堺雅人)と、ひき逃げ犯である木島(山田孝之)を中心に進む。被害者遺族である中村は、刑期を終えて出所した加害者木島のことをこっそりとつけ回す。そして、妻の命日になったら「お前を殺して、おれも死ぬ」という殺人予告を木島に送りつける。
加害者である木島はできれば自分のそばには居て欲しくない人間だ。傍若無人な振舞いは常軌を逸していて、周りの人間にも理解不能。しかし、その一方で周りの寂しい人間は、どこか木島に惹かれてしまうところもあるようだ。独りでいるよりはそんな人間でも近くに居たほうがいいということだ。木島を演じる山田孝之はギラギラした目で、異質な存在感を放つ。
被害者遺族である中村はなぜかプリンが大好きな中年で、やせているくせにプリンの食べすぎで糖尿気味。堺雅人はいつものキラキラした瞳は見せずに、分厚い眼鏡で怪しい風体の男になりきっている。いつも汗まみれで髪はあぶらっぽく、妻の死の受け容れられずほとんど精神を病んでいるみたいな状態だ。
タイトルに“侍”とあるけれど、中村と木島の対決は、勧善懲悪的な時代劇の一騎打ちのようにすっきりとしたものになるわけではない。
中村は木島に「他愛のない話がしたい」と語りかけるが、難しい言葉なんかで直接に心情を説明しないのがいい。他愛のない話は中村の心にうごめく“何か”を直接に示しはしない。それでも雨のなかでの泥まみれの対決のあとには“何か”が伝わってくるようにも思えた。けんかのあとでふたりがわかりあうなんてこともないし、中村が完全に吹っ切れたとも思えないけれど、犯罪被害者の遺族と加害者の関係がすっきりと整理されるわけがないのだ。
そのすっきりしなさから「わかりにくい」という評価もあるみたいだけれど、言葉で説明できない“何か”を表現している点で素晴らしい作品だと思う。
物語は妻をひき逃げされた中村(堺雅人)と、ひき逃げ犯である木島(山田孝之)を中心に進む。被害者遺族である中村は、刑期を終えて出所した加害者木島のことをこっそりとつけ回す。そして、妻の命日になったら「お前を殺して、おれも死ぬ」という殺人予告を木島に送りつける。
加害者である木島はできれば自分のそばには居て欲しくない人間だ。傍若無人な振舞いは常軌を逸していて、周りの人間にも理解不能。しかし、その一方で周りの寂しい人間は、どこか木島に惹かれてしまうところもあるようだ。独りでいるよりはそんな人間でも近くに居たほうがいいということだ。木島を演じる山田孝之はギラギラした目で、異質な存在感を放つ。
被害者遺族である中村はなぜかプリンが大好きな中年で、やせているくせにプリンの食べすぎで糖尿気味。堺雅人はいつものキラキラした瞳は見せずに、分厚い眼鏡で怪しい風体の男になりきっている。いつも汗まみれで髪はあぶらっぽく、妻の死の受け容れられずほとんど精神を病んでいるみたいな状態だ。
タイトルに“侍”とあるけれど、中村と木島の対決は、勧善懲悪的な時代劇の一騎打ちのようにすっきりとしたものになるわけではない。
中村は木島に「他愛のない話がしたい」と語りかけるが、難しい言葉なんかで直接に心情を説明しないのがいい。他愛のない話は中村の心にうごめく“何か”を直接に示しはしない。それでも雨のなかでの泥まみれの対決のあとには“何か”が伝わってくるようにも思えた。けんかのあとでふたりがわかりあうなんてこともないし、中村が完全に吹っ切れたとも思えないけれど、犯罪被害者の遺族と加害者の関係がすっきりと整理されるわけがないのだ。
そのすっきりしなさから「わかりにくい」という評価もあるみたいだけれど、言葉で説明できない“何か”を表現している点で素晴らしい作品だと思う。
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