サイの角のように 独りよがり映画論

映画について自分勝手な感想の備忘録。ネタバレもあり。 ほかのブログから引っ越してきました。

2013年09月

ニール・ブロムカンプ 『エリジウム』 オタク的感性を刺激するSF映画

 『第9地区』ニール・ブロムカンプ監督の最新作。前作の大成功を受けて、マット・デイモンとジョディ・フォスターというスターを擁したSF大作となったのが『エリジウム』だ。
 この映画では、地球は荒廃してスラム化しているが、一部の富裕層だけが上空に浮かぶスペースコロニー“エリジウム”において豊かな生活をしている。最近の映画では『タイム/TIME』が似たような設定だったが、これも格差社会を扱ったSFの王道路線だ。

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 『第9地区』では地球に不時着してスラムに隔離されるエビ型エイリアンは、ブロムカンプの出身である南アフリカのアパルトヘイトで虐げられる黒人を表現していた。今回の『エリジウム』でもそうした社会批判的な視点は活きている。ごく一部の富裕層とその他大勢の貧困層は分断され、貧困層には空に浮かぶ“エリジウム”の幽かな姿に憧れるものの、そこにたどり着く具体的な手段は何もない。“エリジウム”では最新鋭の医療ポッドが存在し、ガンなど不治の病もなくなり、ほとんど永遠の命を手にすることができる。しかしそれは“エリジウム”に居住することが許可された一部の市民だけの特権であり、地上のスラムに生きるその他大勢の人間は目に見える不公平を甘受しなければならない。
 監督によれば、こうした不公平は現実の姿を写したものだ。映画に描かれた“エリジウム”というユートピアと、スラム化した地球というディストピアは現実世界そのものなのだ。

 とは言えブロムカンプ監督は社会批判をすることが目的ではないだろう。『第9地区』ではロボットバトルを見せてくれたが、今回はパワードスーツを身にまとった肉弾戦を見せてくれる。オタク的感性を刺激する様々なガジェット(ドロイドとかパワードスーツとか)が登場する。こっちのほうがビジュアル・アーティストを自認する監督の本領なのかもしれない。敵役がなぜか日本刀を用い、“エリジウム”のなかには桜の木があり、戦闘シーンでは桜の花びらが舞い散るなど、どこか日本びいきなシーンもある。
 ただ王道SFを目指した分、やはり『第9地区』ほどの驚きはなかったというのが正直なところか。スキンヘッドにしてちょっとゴリラっぽさが増したマット・デイモンは頑張っているが、ジョディ・フォスターはあっけない。もっといやらしい悪役が見たかったが……。



『オン・ザ・ロード』 ケルアックの原作の持つ「乱暴な詩情」

 原作はジャック・ケルアックの書いた約50年前のもの。以降のアメリカ文化にも多大な影響を与えた作品として有名だ。
 監督はウォルター・サレス。出演はサム・ライリー、ギャレット・ヘドランド、クリステン・スチュワートなど。妊婦という役柄からかややぽっちゃりしたキルステン・ダンストや、尻を丸出しにしておいしいところを持っていったスティーヴ・ブシェミも登場する。

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 悪くはないとは思うのだが、やはり凡庸な映画ファンとしては、「やっぱり物語が好き」とも思うのだ。『オン・ザ・ロード』には、そんなものはない。ロードムービーには目的地があるのが普通だが、この映画にそれもない。「ここではないどこかへ」という旅人の心情からも遠い気がする。路上で生まれたディーンが求めるのは、どこかへ行き着くことではなく、ただただどこかへの途上にあり続けることにあるのだから。
 ウォルター・サレス監督の人気作『モーターサイクル・ダイアリーズ』においても、旅自体が目的とされているが、主人公はあのチェ・ゲバラであり、彼が革命を志すに至る精神的な旅という物語が軸にあった。『オン・ザ・ロード』にはそうしたわかりやすい物語はないのだ。
 『モーターサイクル・ダイアリーズ』にはマチュピチュやアマゾン河などの風景もあったが、ディーンが走り回るアメリカの風景にあまり変化はない。通り過ぎる町に違いはあったとしても、ディーンたちが求めるのはどこへ行ってもドラッグとセックス(まれに音楽)の狂乱に過ぎない。もちろんディーンはどんな場所にも素晴らしさを見いだす「聖なるマヌケ」という得がたい存在なのだが……。

 原作が影響力を持ったのは、描かれる題材の新しさもあったのだろうが、それよりも作家・古川日出男がチラシに記しているように「乱暴な詩情」というものがあったからじゃないだろうか? それがどこにあるかと言えば、原作の翻訳者・青山南が解説しているようにケルアックの鋭い語感、つまりはケルアックの文章そのものにあったはずだ。「やつこそ、ビートだ――ビーティフィクの根っこであり、魂だ」というように、beatという言葉にbeatificを結びつけるような語感のすごさだ。そうしたものがあればこその『オン・ザ・ロード』というわけで、コッポラ念願の映画化とはいえ、はじめから難しいプロジェクトだったのかもしれないとも思う。





キーラ・ナイトレイ版『アンナ・カレーニナ』 “劇場”という装置の意味するもの

 『プライドと偏見』『つぐない』のジョー・ライト監督作品。出演はキーラ・ナイトレイジュード・ロウアーロン・テイラー=ジョンソンなど。
 過去に何度も映画化されたトルストイの長編小説の映画化。ぼくが観ているのは1997年のソフィー・マルソー版だけだが、原作のアンナのイメージに近いのはふくよかな印象のソフィー・マルソーだとは思うが、今回のキーラ・ナイトレイ版のアンナも線が細すぎるとはいえ美しさは際立っている。

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 物語としては、アンナとヴロンスキーの不倫と、キティとリョーヴィンのまっとうな結婚が描かれる。監督のジョー・ライトは今回なかなか実験的な手法を用いている。まず登場人物が現れるのは“劇場”の舞台の上なのだ。そんな“劇場”で演じられる物語と、“劇場”を離れてロシアの大地の上で展開する物語が入り混じるように進んでいくのだ。
 この”劇場”という装置で表現されているのは何か? アンナはヴロンスキーとの恋を秘め事に終わらせず、社交界の掟を破って不倫を公然のものとしてしまう。それによって結局社交界という「世間の目」によって酷い目に遭わされる。この「世間の目」を象徴したものが、“劇場”で演じられる偽りに満ちた物語なのではないだろうか。
 たとえば、競馬は貴族たちの社交の場だから当然“劇場”内で行われ、転倒した馬は舞台から転げ落ちることになる。アンナとヴロンスキーのベッドシーンは秘め事だから“劇場”以外の場が設定されるが、アンナが息子とベッドにいる場面は“劇場”内で進行している。これはアンナと息子の関係が「世間の目」を意識していることの表れかもしれない。
 トルストイの原作『アンナ・カレーニナ』を論じたナボコフは「社会の掟は仮初(かりそめ)であって、トルストイの関心は永遠の道徳的要請というところにあった。」(『ナボコフのロシア文学講義』より)と記しているが、この映画で言えば、仮初の掟は「世間の目」によって担われており、“劇場”を去っていったリョーヴィンが最後に獲得するものはナボコフが「永遠の道徳的要請」と呼んだものだろう。

 ジョー・ライトは物語内に“劇場”という装置を組み込んで、それまでの映画化との差異化を図ったのはそれなりの成功を収めている。キティがヴロンスキーに捨てられる場面での奇妙なダンス――普通に腕を組むのではなく、アルゼンチン・タンゴの足の動きのように腕と腕を絡ませながら踊る――は今までに見たことのないダンスシーンだし、木下惠介が『楢山節考』でやったような舞台セットの移動を映画内に取り込む演劇的手法もけれん味があってよかったと思う。



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