原作は直木賞作家の小池真理子の同名小説。
監督は『三月のライオン』などの矢崎仁司。
冒頭で成海璃子が黒板前で脱ぎ始める。下着姿になって訴えるのは制服廃止運動で、時代は全共闘運動華やかりしころだとわかる。それにしてもなぜ今になってこの時代なのかはよくわからない。原作者は自らの青春時代をなぞっているだけなのだろうが、この時代はちょっと特別な感じもしてわかりづらいような気もする。
“革命”という熱狂が本当にあったのかどうかはその後に生まれた人間としては未だに理解に苦しむところがあるし、登場人物たちもマルクスを読んでるわけでもないし、その当時人気だった高橋和巳や吉本隆明よくわからないと正直に告白しているから流行り病みたいなものだったのかもしれない。
それまでの体制をつぶそうとするような行動は親世代にしてみたら、「全員逮捕して銃殺刑にすればいい」という唾棄すべきものなのだろうし、後続世代からしても賑やかなところに羨望を覚えたりはするかもしれないけれどやはり理解しにくいんじゃないだろうか。「ゲバルト・ローザ」とか言われてもその世代の人以外の誰が理解するんだろうかと心配になったりもした。
そんなわけでその時代の若者たちの群像劇だと勝手に推測していると実はまったくそんなことはなく、学生運動は単なる背景でしかなかったようだ。その世代の作家三田誠広はあの時代は暗い顔をしているほうがカッコいいと思われるようなところがあったとどこかで記していた。主人公・響子(成海璃子)の恋人となる渉(池松壮亮)も暗い表情をしているのだが、彼の悩みはエリートが日本社会を憂う類いものではなくてごく個人的なものに過ぎない。
というかこの作品は原作者の自伝的な小説らしいのだが、かなり色々詰め込みすぎているようにも思えた。結局は恋愛の話になっていくのはいいとしても、近親相姦やホモセクシャルとかが出てきたかと思えば、人間関係のトラブルから殺人だとか自殺だとか、ひっちゃかめっちゃかなのだ。自伝的だというのは無茶苦茶な展開を理由付けするためのものなんじゃないかと思えるほどだった。本当にそうした時代を過ごしてきたのだとすればすごいことだけれど、結局のところラストの印象としてはあのころが懐かしいといったものしか残らないような気がする。
成海璃子がベッドシーンでもあまりに不自然なくらいに胸を死守するのは、のちに登場する男同士のベッドシーンが強烈になるような配慮なのだろうか。覗きをする斉藤工のじっとりとした目付きがとてもよかった。
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