低予算ながら海外では結構な評判となっていた作品。

 今年1月に劇場公開され、7月にソフトが登場したばかり。

 監督はデヴィッド・ロバート・ミッチェルで、この作品が長編2作目とのこと。

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 19歳のジェイ(マイカ・モンロー)は新しい彼氏のヒューと初めてセックスしたあとに、気がつくと車椅子に縛り付けられている。これはヒューの仕業で、ヒューは“何か”をジェイにうつしたと言う。その“何か”はジェイのことを追ってゆっくりと歩いてくる。そのときはたまたま裸の女性だったが、“何か”は何にでも姿を変えられるのだという。ヒューは“それ”が怖ければ、セックスをして誰かにうつせと忠告する。“それ”にジェイが殺されると、次のターゲットはまたヒューに戻ることになるからだ。ジェイは果たして“それ”から逃げることができるのか。

 

 ホラー映画では殺人鬼が狙われる若者たちは羽目を外している者たちから順番に殺されて行くのが定番だ。これはホラー映画なりの倫理観なのかもしれないのだけれど、この映画の場合、“それ”がセックスによって感染するということから、最初はエイズのような病いのメタファーなのかと話題になったようだ。監督は「そうしたメタファーを込めてはいない」と否定しているようだが、“それ”が何なのかをどうしても考えてしまうような謎めいた作品となっている。

 冒頭の住宅地を女の子が逃げ回るあたりはジョン・カーペンター『ハロウィン』を思わせたりもするし、カメラワークも結構凝っていて“それ”がゆっくりと迫ってくる雰囲気をよく出していたと思う。

 

 色々な人が“それ”について解釈しているわけだけれど、ぼくには“それ”が人間が決して逃げることのできない“死”なのだろうと思えた。ある女の子が呼んでいる本はドストエススキー『白痴』であり、この映画内では主人公のムイシュキンが死刑を命じられ、死ぬ直前に恩赦で救われるという場面が朗読される。この出来事はドストエフスキーが実際に体験したことであり、死の存在を強烈に意識さぜるを得ない状況で、わざわざこの場面を朗読させるのはやはり死というものがモチーフにあるのだろうと思う。

 

 それではセックスと死がどうして関係しているのか。「生と死」というコントラストからすれば、生きることは当然のごとく死につながるわけだから、セックスという行為は“生”の誕生へとつながるわけで当たり前だとも言えるかもしれない。

 しかし、こんなふうにも考えられるかもしれない(以下は『自我の起原』という本に影響されている)。生物学などの知見によれば、たとえばアメーバーのような無性生殖の場合、個体は分裂することでまったく同じふたつの個体になるわけだから、ほとんど不死のようなものだ(もちろん何らかのアクシデントで個体が死ぬ場合もあるけれど、分裂したもうひとつの個体が残っていれば問題ない)。あるいはほかの例を挙げれば、マンガ『ドラゴンボール』のピッコロ大魔王。ピッコロは死ぬ直前にすべてを新ピッコロに託して生まれ変わる。ここでも個体はほとんど不死に近いと言えるかもしれない。

 しかし、人間や多くの生物もそんなことは不可能だ。なぜかと言えば、われわれ人間は有性生殖だからだ。オスとメスの遺伝子を組み合わせることで環境に対する選択肢は増え、生物種として生き残る可能性は増したのかもしれない。しかし一方で個体は必ず死に至ることになる。生物は無性生殖のときは個体はほとんど不死に近かったのに、有性生殖を選んだことで必ず死という運命を背負うことになったわけだ。


 そんな意味でもこの映画でセックスをすると死に近づくというのはわからないでもない。そんなことを何となく感じさせたりもする映画なのだ。ジェイを守ろうとする幼馴染のポール(キーア・ギルクリスト)はジェイを守るためにジェイと寝ることを望む。というか、もともといつもジェイのことばかり見ているストーカーみたいな子だったわけで、“それ”がきっかけになってジェイと寝ることができたわけで彼にとっては好都合だったのかもしれない。死を超えてでもセックスはしたいといういじましさ。ラストでジェイとポールが手をつないだ向こう側に“それ”らしきものが見えるのがやはり怖い。