サイの角のように 独りよがり映画論

映画について自分勝手な感想の備忘録。ネタバレもあり。 ほかのブログから引っ越してきました。

レア・セドゥ

レア・セドゥの主演作 『グランド・セントラル』 先の見えない不安

 レア・セドゥの主演作。監督はレベッカ・ズロトヴスキという女性で、ふたりのコンビで『美しい棘』という作品もあるらしい(ちょっと観てみたい)。

 この『グランド・セントラル』は原発の作業員たちの話。日本でも“原発ジプシー”などと呼ばれ、全国の原発を回り点検作業を行う作業員はいるらしく、同名の本も出ている。この映画の舞台はフランスだが、フランスでも原発の作業員たちは底辺の生活なのがよくわかる(主人公のギャリーは無一文で原発にやってくる)。原発のシーンにリアリティがあるのかはよくわからないけれど、実際にあんな場所で命を削るようにして働く人がいることは確かなのだろう。

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 ギャリー(タハール・ラヒム)は原発で働くことになると、同僚トニの恋人キャロル(レア・セドゥ)のことを好きになってしまう。キャロルは打算があってギャリーに近づいたものの、次第にそれは本気のものになってしまう。キャロルと離れたくないギャリーは、放射線量の限度を超えて危険なのにも関わらず、周囲を騙してまでも原発での仕事を続けようとする。

 この作品製作のスタートは福島の事故の前からで、事故に誘発されたわけではないようだ。ただ作品中に「福島」という言葉も出てくるから、一部変更はされているのだろうと思う。だからもともとの出発は原発の危険を訴える作品というよりも、原発が何らかの危機とか不安を煽る象徴として導入されているのかもしれない。

 原発作業員のような底辺の生活はいつまで続けられるかわからない。事故で放射線を多く浴びれば、原発の仕事から締め出されるし、大事故ともなれば死ぬこともあり得る。そんな先の見えない生活の不安が「原発」という形で描かれているようにも思えた。レアが演じるキャロルは自分で作った粗末なウェディングドレスで結婚式を挙げるのだが、その表情には明るさはない。その先を暗澹たるものと感じているのかもしれない。

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 『グランド・セントラル』でのレアは、『アデル、ブルーは熱い色』みたいなレズビアン風な装い。というかカッコいいオナベみたいな雰囲気でもある。ボディースーツと呼ぶ水着みたいなものにショートパンツという格好は、同時期にDVDが登場した『美女と野獣』のドレスとは対照的だ。しかもこの映画ではその白い胸を何度も露わにさせているから、そんな意味でも楽しめる。

 同僚トニを演じたドゥニ・メノーシェはリノ・ヴァンチュラみたいな雰囲気でよかったし、『息子のまなざし』のオリヴィエ・グルメも顔を出しているのも嬉しい。

『美女と野獣』 レア・セドゥ版の出来は?

 『ジェヴォーダンの獣』『サイレントヒル』などのクリストフ・ガンズ監督の作品。

 主演にはレア・セドゥヴァンサン・カッセル

 昨年11月から劇場公開され、先月にDVDが登場した。

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 『美女と野獣』はディズニーのアニメが有名だが、ぼくは観ていない。ジャン・コクトーがつくった1946年のモノクロ作品は昔ビデオで観た。

 コクトーの『美女と野獣』はジャン・マレーの印象しかない(ジャン・マレーはいかにも二枚目だし、野獣の姿でも瞳がきれいだった)。コクトーとジャン・マレーは愛人関係だったともされているようだし、やはりジャン・マレー演じる野獣のほうにシンパシーを抱いていたのだろうか。

 一方で今回のクリストフ・ガンズ版『美女と野獣』はベル役のレア・セドゥの印象が強い。ヴァンサン・カッセルはさすがにジャン・マレーと比べると普通すぎると思う。レア・セドゥ演じるベルが野獣の城へ赴くとほとんど彼女のひとり舞台の様相もある。野獣はたまにしか姿を現さないし、ドレスを色々と着替えたりして、お嬢様タイプのレアを観たいという人ならば楽しめるかもしれない。ドレスから垣間見える白い胸元は強調されているけれど、残念ながら(?)裸はない。

 王子がなぜ野獣となったのかというエピソードや、なぜか巨人が登場したりするのはそれまでの『美女と野獣』にはなかったものらしい。ウィキペディアによると『美女と野獣』は異類婚姻譚というジャンルになるようだ。日本でも「鶴の恩返し」とかそういう話はあるけれど、西洋のそれと比べると日本の話は貧乏くさい感じがして、彼我の差を感じたりもする。

『南へ行けば』 レア・セドゥ出演の日本未公開作

 『アデル、ブルーは熱い色』レア・セドゥ目当てのファンを当て込んで発売されたと思わしき日本未公開作品。ぼくももちろんレア目当て。レアはもちろんセクシーなんだけれど、笑うと歯がすきっ歯で(シュワちゃん風に)、そんなアンバランスなところが妙に気にかかる存在。

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 冒頭ではレアが扇情的な仕草で踊るシーンがある。これはそのままタイトルバックにもなっていて、このシークエンスはタイポグラフィとか音楽(KasabianShoot The Runner」とのこと)とかも含めてとてもシャレている。


 レアは男の気を引くためにそんな躍りをしてみせたわけだが、その男サム(ヤニック・レニエは物思いにふけるためか、女に興味がないのかまったく関心がない様子。そのレアをビデオ撮影しているマチューは彼女の兄らしく、彼もレアの狙っているサムに気があるらしい。

 そんなわけで誰もレアに興味がないという設定。というよりもこれはゲイ・ムービー的な部分もある作品で、主人公はサムなのだから仕方ない。途中からレアが拾ったナンパな感じの男も含めた4人でのロードムービーとなる。男たちは皆それぞれにイケメンだし、ゲイ・ムービーとしてのほうがもしかしたら楽しめるのかも……。

 実はサムには暗い過去があって、そのことに決着をつけるためにある場所へ向かっている。結構暗い部分もあるけれど、フランス映画らしい雰囲気もあってなかなか楽しめると思う。

『アデル、ブルーは熱い色』 熱くて長いベッドシーン

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 カンヌ映画祭のパルム・ドール受賞作品。
 女優ふたりの大胆なラブシーンが話題となった作品。レズビアンを扱ってはいるが、製作陣に同性愛者はいなかったらしく、本当のレズビアンが見ると奇妙なベッドシーンとなっているとのこと。とにかくふたりの絡みを執拗に見せつけるものだから、不快に感じる人もいるかもしれない。
 登場人物のエマが語る芸術論のなかでは、芸術は美を描くものであり、醜いと思うのは主観にすぎないみたいなことが語られている。その言葉をなぞるように、監督は絵画のようにベッドシーンを撮影したとのこと。それでもやっぱりあのベッドシーンは監督の主観による美にすぎないとも思う。
 アブデラティフ・ケシシュ監督は男性だし、どこか尻フェチのところがあるのか、お尻ばかりを狙っているように思える。美術館のシーンでは彫刻の尻を前景にしたカットばかりをつないでいるし、もっとも印象に残るシーンでは、エマ役のレア・セドゥの丸くて白磁のようなお尻を中心に据えて画面を構成している。それは悪くはないのだけれど、誰にでも受け入れやすい美ではないという気もした。
 ほかのシーンは長くても、アデル(アデル・エグザルコプロス)の表情やほかの人物との会話といった物語上の流れがあった。しかし、ベッドシーンにおいてはほとんど流れが止まり、表情の機微よりもふたりの絡み会う肢体ばかりが捉えられるため、エロさはあったとしても、読み取れる内容はごく限られていて、ちょっと長すぎる印象だった。
 ここまでベッドシーンについてばかり記したが、全体的にはレズビアン映画という印象ではなく、普遍的なものを扱っていて好感が持てた。

 映画の原題は「アデルの人生 第1章、第2章」で、アデルの17歳から25歳くらいまでの人生の序章とでも言うべき時期を、ゆっくりとしたテンポと極端なクローズアップで描いていく。飾らないアデルの姿にはまる人は、3時間の長丁場も楽しめると思う。しかし、はまれなかった人にとっては拷問かもしれない。ぼくはベッドシーンには感心しなかったけれど、アデルにはとても共感して、3時間も没入できた。ただのレズビアン映画ではない何かがあると思う。
 原作はフランスの漫画。映画とは違う結末になっているらしい。『blue』という女子高生を題材にした忘れがたい漫画を描いた魚喃キリコは、この映画について「ヤベぇ、すっげー染みる、痛いほどに、自分のことのように。」と語っている。絶賛と言ってもいいだろう。ぼくもそのコメントに激しく同意したい。




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